ネクタイの一日 1
「まだ緩いよ。もっと締めて」
「これ以上は無理だろ」
「ううん、まだ結び目の上があいてる」
朝、リビングでネクタイを締めていると、キッチンで皿を洗っていた蘭世が、横から口出してきた。
今日は、スーツを着ての仕事。久しぶりに結ぶネクタイだ。
蘭世は皿を洗う手を止めて、エプロンで手を拭きながら俊の前に来て、ネクタイを締め直した。
「高校生じゃないんだから。今日は偉い人たちも集まる会議と取材と撮影なんだからきちんとしないと」
胸元で慣れた手つきでネクタイを締める。
俊は(うおっ、苦しい)と顔を上向けた。
蘭世の水滴の残る手から、かすかに洗剤の匂いが漂う。
妻らしいエプロン姿と真剣なまなざし。
(こういうのもまんざらでもないな)心の中で思った。
(いつのまに人のネクタイ結ぶの上手くなったんだろう…)
「さ、できた」
蘭世は、ハンガーにかかっていたスーツの上着を外し、後ろにまわり襟元を持って手に通すのを手伝った。
そして再び前にまわり、
「かっこいい旦那さん、できあがり」
俊の胸をポンと叩いた。テンションの低さをなんとか高めようとしてくれているかのように。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
いつものように、玄関で見送る蘭世の額に軽く唇をあて、家を出た。
(長い一日になりそうだな。ま、始まれば終わるか)
ラッシュアワーの電車に揺られながら、心の中でつぶやいた。
午前は会議、午後は雑誌の取材と写真撮影。
どちらも最近立ち上がった「プロボクシングの発展を応援する会」に関連する行事。
オファーを断ることもできたが、引き受けたのは、
近年ボクシング人口が減っていること、伝染病の流行で経営が苦しくなっているボクシングジムへの支援など、自分でも何かできることはないかという日頃の思いがあったからだ。
目的の駅に着き電車を降りた。同じようなビルが立ち並ぶ官庁街にある会場の建物は、駅を降りてすぐ目の前にあった。
エントランスを抜けてすぐのカウンターで受付を済ませると、
「真壁さん、ご案内しますね」
受付の女性が会議室のロの字型に配置された机の席まで案内してくれた。
隣の席は、すでに誰か座っていた。顔なじみでよく一緒に練習もする後輩ボクサー、伊藤だった。
彼もタイトル挑戦権を持つ、ランク急上昇中の期待のプロボクサーだ。階級は一つ上のスーパーフェザー級。短めの茶髪と甘いマスクで一人気のボクサーだ。男気があり頑固な面もあるが、人懐っこい奴だ。
「あ、真壁さん、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそな」
「なんだか、こんな改まった会議、緊張しますね。いつもと違うの苦手で」
「おれも。ま、でも始まれば終わるさ」
会議が始まった。
会長の挨拶からはじまり、何名かの関係者の挨拶が続いた。その後意見交換。
自分の番になり、マイクを渡され日頃の思いと神谷から預かったボクシングジムの現状と要望を述べた。
少ししゃべっただけで汗が出た。もっと勉強しなきゃいけないと思った。
会議は予定通り正午に終わった。
(長かったな。やっぱりこういうのは性に合わねえな)
午前のミッションは終わり、やれやれとほっとしながら、蘭世が作ってくれた弁当を持って、窓際の席に移動する。
「真壁さん、昼飯、店で一緒にどうです?」
後輩の伊藤が声をかけてきた。
「悪い。俺、弁当」チューリップ柄の布に包まれた弁当を掲げながら言った。
「あ、愛妻弁当ですか? いいなあ。ラブラブ新婚さん」
「ばかいえ」後輩の頭を軽くはたく。
「ちょっ、今さら照れなくてもいいじゃないですか。もお」
乱れた髪を直しながら、ためぐちがちに言った。
「じゃ、俺は外行ってきます。午後の対談もよろしくお願いしますね。じゃあ」
出ていく後輩を見届けると弁当を広げた。
(やっぱりいつも通りがありがたいな)
色とりどりの栄養バランスばっちりのおかずとごはん。いつもと変わらない弁当は、気持ちを和ませてくれた。
箸を持つと、なかば無意識にネクタイの結び目に指を入れ、ネクタイを緩めようとした。が、やめた。
(まだ、午後もある)
窓から眼下に広がる都心の街を見下ろしながら、ブロッコリーをほおばった。
午後は、ファッション雑誌とのタイアップ企画、インタビュー形式の対談だった。
タイトル(仮)は、【ダイエットだけじゃないボクシングの魅力】
ディレクター、インタビュワー、フォトグラファー、アシスタントと挨拶を交わした
伊藤も俊もちろん初対面だったが、伊藤の方は早くも冗談を言い合っていた。挨拶が終わると早速始まった。
インタビュワーは、ボクシングをはじめたきっかけ、ボクシングの魅力、今後の目標・夢、家族のことなど次々と質問した。
はじめは緊張したが、さすが元NHKのベテランアナウンサー、上手い受け・返しで、不慣れなボクサー二人の笑顔と言葉を巧みに引き出していった。特に伊藤は、ボクシングの魅力のところで熱く語っていた。俊も負けじと日頃の思いを熱く語った。
対談が終わると次は撮影だった。
アシスタントの人に髪を整えられ、ネクタイのズレを直してもらい撮影が始まった。
壁に手をついたり、椅子に座って片足を座面に乗せるポーズなど、モデルのように色々やらされた。
はじめはぎこちない動きだったが、さすが有名フォトグラファー、巧みな声かけに、なんだか俳優の気分になってきた。
二人とも次第に遊び心がついて自らポージングしてみたり…、こっち向きの方がいいんじゃないと椅子の位置を変えてみたり…、そして、これはボクサーの性なのか、俺のほうがかっこいいだろと競争心が湧いてきて、それがモチベーションにつながった。和やかな中にも額に汗のにじむフォトセッションだった。
「お疲れさまでした」
終わった。長い一日が終わった。
解放感に浸りながら、携帯電話を取り出し、メールを打った。
「仕事終わった。今から帰る」
すぐ返事が返ってきた。
「お疲れ様♡ 今日の晩ごはんは、ロールキャベツです」
携帯を眺めていると、再び後輩の伊藤が後ろから話しかけてきた。
「真壁さん、一緒に晩め…、あ、もしかして帰るコール?」
「まあな」
「ですよね。一緒に晩飯をと思ったけど、新婚さんを誘っちゃいけませんよね。いいなあ、おれも蘭世さんみたいな嫁さん欲しい」
「ばかいえ」また頭をはたこうとしたが、
「すまない、やっぱ家帰るわ」
後輩と別れ、ビルを出て駅まで歩いた。せっかく街に来たからには、喜びそうな土産を買ってってやろう。
駅前の通りから少し離れた路地の、目立たないが結構人が並んでいるケーキ店でケーキを2つ買って家路についた。
つづく
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