ネクタイの一日 2
このお話は後半です。前半はこちらから
「ただいま」
玄関を開け、キッチンに行くと、「お帰り」と笑顔で迎えてくれた。
「ケーキ買ってきた」
「わあ、嬉しい!ありがとう。後で食べよう」
蘭世は、ガスコンロに火をつけ、電子レンジを回すと、
「すぐごはん用意するから着替えてきて」
俊は、空の弁当箱をリュックから出し、冷蔵庫にケーキを袋ごと入れると、2階へ上がった。
寝室のクローゼットの前に立ち、上着を脱いだ。
そして、今日一日首を締め付けていた布切れの結び目を掴み緩ませると、そのまま片手で勢いよく引っ張った。
シュッという音とともに、フワッと心も体も一瞬で緩んだ。部屋着に着替え、寝室を出た。
階段を下りると、ロールキャベツの匂いが漂よってきた。蘭世はエプロン姿で鼻歌を歌いながら、テーブルに皿を並べている。
着替えた解放感とうまそうな匂いとかわいい妻の三重奏、安らぎと心地よい五感の刺激に気持ちが浮き緩む。
思わず後ろから蘭世を抱きしめた。
「えっ、ちょっと、急にどうしたの?」
胸のふくらみに指を走らせる。
「こんなところじゃはずかしいよ」
首筋に唇を這わせる。
「ね、後でね、ごはん冷めちゃうから」
蘭世は俊の手を退けようと手を重ね、ぐっと押し下げた。
手を離した…
蘭世は、赤い顔で乱れた髪を直しながら、ガスコンロへ行き、温まったロールキャベツを皿に盛り、テーブルに運んだ。
「さあ、食べよ」
テーブルには、ロールキャベツの他に、ニラレバ炒めとほうれん草のおひたし、白飯が並ぶ。
アスリートフードマイスターの資格を持つ蘭世は、ボクサーのシビアな食生活に合わせ、毎日バランスのとれた食事を作ってくれる。
しばらく試合のない時期は、時々肉料理の御馳走だ。
ロールキャベツを口に運んだ。スープが染み込むキャベツのうま味と、その中にジューシーな肉がたっぷり詰まった絶品だった。
すぐに次をほおばりたくなるのを抑えつつ、今日一日の出来事を話しながら、味わって食べた。
「うまかった。ごちそうさま」
皿を平らげ、言った。
「えっ、今なんて?」
「ごちそうさま…だけど」
「ううん、その前」
「え、何だっけ、うまかった…か?」
「うん、はじめて言ってくれた…嬉しい」
蘭世の目に、涙らしい光の影が浮かんできた。
「おいおい、いつも思ってるけど…今日はただポロッと」
「わかってるけど…そういうのはね、思ってるだけじゃなくてちゃんと言ってくれないと。あ、でも、いつも言わなくて今日はポロッと本音だから嬉しいのかな、
あれ?なんか矛盾してるね。ああ、自分でもよくわかんない…」
「……」
「わかったよっ、いつもうまいし、今日は特においしかった。いつも感謝してる」
やはり言葉にするのは恥ずかしい…。
「うう、ぐすっ」余計に泣き出した。
「ったくまた、しょうがねえな」
俊は、席を立ちティッシュの箱を取りに行くと、ボンとテーブルの上に投げた。
蘭世はティッシュを一枚取り、涙を拭った。しばらく黙って涙を拭いていたが、突然、こんどは、
「あーーー!」大声を出す。
なんだ、なんだ?
「ケーキ食べるの忘れてた」
ズコッ
蘭世は、ばたばたと冷蔵庫にケーキを取りに行き、袋からケーキの箱を出した。
「あっ、カフェナカノだ! 近くだったの?」
「ああ、帰りに何か土産をと思って、近くの店ググって、評判よさそうな店だったから」
「私ここのケーキ食べたかったの、嬉しい」
箱を開けのぞき込み、嬉しそうな顔を下に向けたまま言った。
「美味しそう!モンブランとチョコレートケーキ、真壁くん、どっちにする?」
(お前も真壁だろ)と心の中でつっこみつつ、
「おれはいいよ。一口貰う。明日また食べろよ」
「えっ、いいの? 私ばっかり太っちゃうね」
コーヒーを入れてもらい、ケーキを一さじ、口の中に入れてもらうと、
「俺、先に風呂入ってくる」
口に入れたままもぐもぐと、バスルームに直行した。
「ポチャ、ブシュブシュブシュ」手で湯をすくい顔をこすりながらぼんやり考えていた。
(相変わらずのドタバタだけど、ホッとするな。
今日はいつもと違う一日だったけど、まあこういうのも普段のありがたみがわかってたまにはいいな)
体は充分温まり、風呂から出た。
リビングに戻ると、蘭世はちょうどキッチンの片付けを終えたところで、食洗機のスイッチを入れ、エプロンを外し、入れ替わり風呂に入った。
俊は、2階に行き、寝室のベッドに入り雑誌をめくった。
待つ間、はやる気持ちを紛らわそうとあえてしっかり文章を読もうとしたその時、
「ブー」携帯のメール着信音が鳴った。
神谷からだった。
「今日はお疲れ様。遅くにごめんなさい。でもすぐ知らせたくて。俊、反応早いよ!
今日夕方、うちのジムにスポンサー契約の話が舞い込んできて、アイタックっていう、ダイエットの会社なんだけど、年間でうちのジムと契約したいってことらしいの。
普通は試合とかイベントごとの契約でしょ。年間でジムと直接契約って、すごい話よね。
詳細はまた明日話します。俊のおかげです。今日はありがとう」
はやる気持ちが吹き飛んだ。このメールが今日一日の苦労を充実感に変えてくれた。
嬉しい知らせに高ぶる気持ちで、今度は気もそぞろに雑誌をめくっていると、蘭世が寝室に入ってきた。
ドレッサーに座り髪をとく背中に向かって言った。
「さっき、神谷からメールがあって、もうジムにスポンサー契約の話がきたって」
「えっ、そうなの?すごい。早速効果あったじゃない。今日は行ってよかったね」
「ああ」
蘭世は、顔に化粧水を浸み込ませ、クリームを塗り終わると、ベッドに入った。
俊は、雑誌を閉じ、電気を消した…
蘭世の濡れ残る髪からシャンプーの匂いが漂う。俊を見つめ、目を閉じる。妻を抱き締める。
そして…、俊は蘭世の柔らかな肌に包まれ、深い愛に抱き締められていった。
終わり